広島県の備後地方で野生動物の捕獲と食肉加工を行う業者を取材し、猪の猟に同行しました。狩猟で捕らえた野生動物の肉や料理はフランス語のジビエと呼ばれますが、近年増え続ける農作物や森林の鳥獣被害の対策として、全国各地でジビエの消費拡大を促す取り組みが広まっているそうです。
今回の取材で特に印象に残ったのが、二頭の猪と猟師たちの戦いでした。人家にほど近い山裾に設置された檻に案内されると、猟師いわく「小さい」猪が目と鼻の先で荒々しく鼻息を立て暴れ回っています。その様子から生身の人間では命が危ぶまれることはひと目で分かり、雄の一頭が手足を拘束される最中に断末魔の叫び声をあげた瞬間は、恐怖と憐れみが入り交じり言葉を失くしてしまいました。捕獲作業が始まって数十分が過ぎたでしょうか、若い猟師の手で四肢と顔を縛られ身動きが取れなくなった二頭は、運搬車に積まれ加工所へと連れて行かれました。
二日間の滞在中は見聞きするもの全てが強烈でしたが、狩猟は決して遠い世界の文化ではなく、人間の暮らしを支えるために私たちのすぐ傍で行われてきた営みであることに気がつきます。取材が終わり商業施設が立ち並ぶ福山駅へ戻ると、構内の華やかな風景と命のやり取りを見た山中とのコントラストに唖然とし、生きるということについて考えざるを得ませんでした。
大分の印刷所
大分県大分市で長い歴史を歩んできた印刷会社との計画が動きはじめました。印刷媒体のデジタル化、安価で短納期のネットプリントの普及、そしてその流れを加速させたパンデミック。近年のこうした変化でクライアントは大きな影響を受けましたが、これはおそらく全国各地の印刷所に起きていることで、私たちのような編集や設計者も含めた業界全体が岐路に立っているのを日々肌で感じます。
印刷という技術の目的が情報の複製と伝達だとするならば、ウェブが普及した現代ではすでに社会的な役目を終えているのかもしれません。しかし、個人の感情においては今も変わらずインキの質感や紙の手触り、そして物質としての情報に対してある種の情緒を抱くことも紛れもない事実で、そこには単なる情報伝達を超えた働きが存在しています。
印刷と九州の関わりは深く、日本の活版印刷は16世紀末に天正遣欧少年使節が印刷機を長崎に持ち帰ったことが始まりと伝えられます。使節団は豊後国の戦国大名である大友宗麟らにより派遣されたことから、その影響は大分の地にも少なからず及んでいたはずです。ますます変化し混乱していく時代に印刷で何が出来るのかを、この地で改めて問うことに大きな意義を感じます。
かたちに宿るもの
愛媛県の久万高原にある造林会社、松山で木工を中心に就労支援を行う事業所とともに、林福連携の取り組みとして玩具づくりに関わっています。就労支援事業所とは身心にハンディキャップをもつ人々を対象にした施設ですが、利用者の年齢や個性は幅広く、見慣れない私に無邪気な笑顔で話しかけてくれる年配者がいれば、緊張の眼差しを向けこわばる青年もいたりと様々です。思い思いに学習机に向かいながら木工に勤しむ彼らは、容姿は違えど、娘が通う保育園で接する幼い子どもたちのようでした。
施設の利用者さんたちは、各々の適正に合った作業を日々行っています。中でも紙やすりを使って研磨の工程を担当する方たちの仕事ぶりは興味深く、木の部品を原型を留めないほど磨く方や、作業に集中するあまり机に穴が空くほどやすりをかける方もいるほどでした。そうした方たちの制作物は製造業者として不良品とみなされますが、他方で純粋な造形物として見てみれば、自然が生みだすかたちのように無作為の美に満ち、どこか神秘的で強く惹かれるものがあります。彼らの中には意思疎通を図ることが難しい方もいますが、もののかたちに宿る力は言語を超えて人の心を揺さぶることができるのだと、あらためて気付かされました。
水源へ
昨年末から熊本県阿蘇地方で取り組んでいる計画では、この夏にいくつかの水源を訪ねました。阿蘇は日本有数の水の産地として知られ、地表に降った雨水が火山地帯特有の地層を通り濾過されることで良質な地下水になると言います。その水は農業用水や飲料水など様々な場面で活用されていますが、清らかな水の存在はこの地域の暮らしや文化の基礎になっていると言っても過言ではないかもしれません。
訪問先の一つである立岩水源の湧水は年間を通して約13度を保っており、水源にほど近い川に入ってみると、真夏の炎天下でも身体の芯まで冷えるほどでした。湧き出たばかりの水の中を泳ぐ稚魚や、瑞々しい空気で苔むした周囲の木々の色、絶えず激しい流れに晒されて形成された岩の姿など、水源で見られた風景のひとつひとつが、はるか昔から変わらないこの土地の本質を表す存在のように感じられます。
久留米の文字採集
福岡県久留米市にある老舗メーカーの専用書体を設計するために、市内を巡りレタリングを採集しています。久留米市は人口30万人を超える福岡県第三の中核都市であり、明治から昭和にかけて産業都市として県南部の筑後地域で発展してきた歴史があります。こうした背景から街の建物や看板には味わい深い文字が今も数多く残されており、それらは現代の視点から見ると実に新鮮で、自由な感性が表れた示唆に富む形をしています。その姿は郷愁を感じさせるどころか、むしろどこか未来的です。保守的な書体設計の世界にもまだ多くの可能性が残されていることを、無名の書き手たちが教えてくれます。
しかしこうした市井の文字は、建築物などに比べるとその文化的な価値が見過ごされてしまいがちです。情報伝達の媒介である文字は黒衣のように目立たない存在ですが、その造形によって様々なメッセージを話し手に代わって伝えることが出来ます。多様な価値観の文字伝達が求められる現代において、逆説的ですがそのためのヒントは過去にも散らばっているように思います。
阿蘇の野焼き
熊本県阿蘇郡南小国町で飲食店の計画を進めています。このプロジェクトのリサーチの一環として、3月初旬に地元で毎年行われている野焼きに参加しました。阿蘇地方の野焼きといえば数百年もの歴史があるこの季節の伝統行事です。野焼きは牛や馬の放牧地として草原を維持する目的のほか、刈り取られた草は飼料や堆肥となり、さらには茅葺き屋根の材料にも利用されるなど、この地域の暮らしと密接に関わり受け継がれてきたといわれます。
この日は地元の方の安全指導のもとで参加しましたが、バチバチという音を立て瞬く間に激しく燃え広がる炎を前にすると、この行事が命がけの仕事でもあることがすぐに分かります。冬の寒さが残る山中に鼻を刺す煙がたちこめ、時折炎の熱さを半身に受けながら、ゆっくりとその行方を見守り消火作業を行っていきました。
野焼きが終わると、黄色い枯れ草で覆われていた辺り一面は、黒々とした壮大な風景へと一変します。山頂に戻り身体を休めながら細々と煙が立つ山肌を眺め、不思議と自分自身もリセットされたように晴々とした気持ちになりました。日本各地では初春に行われる様々な火祭りが存在しますが、この野焼きもまた、阿蘇の人々にとっては春を迎えるための一種の祭りと言えるのかもしれません。
はるか昔から脈々と続く野焼きも、近年は担い手が減りその規模が徐々に縮小されているといいます。野焼きは自然を守るだけでなく、それを行う人間の心も豊かにしてきたのではないでしょうか。阿蘇の大地と人々が紡いできたこの文化がいつまでも続くことを願わずにはいられません。